互井観章さんは、新宿・牛込柳町の日蓮宗経王寺のご住職で、お坊さんの枠に囚われない企画で有名です。
法華経を日本語訳して、お寺の本堂の中で、HIPHOPの曲調で語る「HIPHOP坊主」や、伝統仏教の6宗派のお坊さんたちを集めたイベント「東京ボーズコレクション」の企画など、多岐に渡ります。
今回はDeepBrandingでオキタさんとの対談に応じていただきました。
対談内容を、前編・中編・後編の3部構成に分けて連載します。
前編の記事はこちら
”ハレ”と”ケ”に秘められた死生観
オキタ:ここまで、仏教の歴史と疫病の歴史の関係性について詳しく教えていただきました。その中で、日本文化には、疫病を神様として距離を置くことで感染対策をしてきた歴史があるというお話をいただきました。祀りの話題もあがっていますが、神様と祭の関係が、ケとハレという世界観から来ているという意味を説明していただけますか。
互井:いろんな神様がいて日常と非日常があって、「家族の中で誰かが亡くなる」みたいな非日常的なことが起きることもある。特に亡くなる等という事とかは日常的にはあってほしくない事だから、ある一定期間が終わると、元の日常世界に戻ってくると。仏教でいうと精進落としみたいなものがハレの儀式で、祭だったんだと思うんだよね。そのケとハレがあるからこそ、”消滅”と”再生”が繰り返されて時代が進んでいくと、昔の人は考えていたんだろうね。
オキタ:死と再生を繰り返していると。
互井:もしコロナの、2年ぐらいじっとしている期間を”ケ”とするならば、その次にやってくるのは、”ハレ”だから、再生だよね。元に戻るんじゃなくて、再生だから新しいものを生み出していかなきゃいけないといけないんだよね。
オキタ:例えば、皮膚を再生するために劇薬みたいなものを塗る美容療法があります。塗ったところがじゅわぁーっとなって、細胞が細胞を攻撃して新しい細胞が生まれて変わり、ぺりぺりっと剥がれると新しい皮膚が生まれるんですが、そのイメージに近いと思うんですよね。
互井:面白いね。死と再生の話だと、最近、ナウシカを漫画で読み始めたのよ。映画ではちょろっと見てたんだけど、漫画は初めてで。
オキタ:僕、観てないからわかんないですけど。
互井:ナウシカにね、これからの生きるヒントがある気がするの。死と再生っていう特に再生の部分で、ちゃんとナウシカ読まないとと思って、漫画で読み始めたの。そしたらね、意外と分からないんだよ。いろんな話がどんどんと出てきて。7巻ぐらいまであるかな、長いんだよね。だから一回ざっと読んだだけだとよく分からなかったんだけど、死と再生というのがナウシカの映画というか、一時のジブリのアニメの大事なテーマなんだと思うんだけどね。死と再生というものが。千と千尋ぐらいまで。
破壊された過去に戻るより、未来を想像する
オキタ:僕も半身不随になって思うのは、大半の人って、今のネガティブな部分を見ているから、治そうと思うと過去を治すことになる。
未来って、過去から未来へと続いていくとするならば、現在を基準として過去に戻さないといけないと思うんですよね。いわゆる元気なところに戻さないといけないと。逆にそれって、時間軸とは違う事をしているんですよ。
僕は治そう治そうとしてきたんだけど、これは違うなと。未来にいかないといけないなと。未来がどうなっていくかを想像してそこに自分が向かっていかなけれないけないのに、すごく過去に向かってたなという風に思って反省したんですね。もちろん、リハビリはまだやってるんですけど。
昔出来てたことを取り戻そうとするとえらい大変なんですよ。例えば、パソコンを使えなくなったとか、頭をひとりで洗えなくなったとか、いろんな事ができなくなったとか。数えたら150個ぐらいできなくなった事があるんです。でも、それを1つずつ戻していこうとするのは大変難しい。未来に向かってまったく新しい価値観で生きていこうとする中で「気づいたら治っていた」という事もあるかもしれないな、ということに僕は思い至りました。
互井:150個できない事が生じてしまったならば、今までやった事のない事を1つでも10個でもやった方が、未来が開けていけるんだと思う。元には戻らないよ、残念ながら。
オキタ:そうですね。だからこのコロナ問題というのは、そういう未来を想像する余地が出来たんじゃないかなと。
例えば、東京大空襲の時にすべて燃え尽くされてしまって、多くの人は苦しんでたんですけど、そこでチャンスだという人たちが現れたんですよね。家がないんだから家を作って売ったら儲かるんじゃないかとか、いろんな人が現れて、10年後にはもう新幹線が開通したわけです。すごいスピード感ですよね、その再生のスピードが。
破壊からの再生っていう意味でいうと、破壊されたものや失ったものを取り戻そうとするより、まったく新しい未来を想像しようという全然違う世界にワープして飛び越えちゃえばいいじゃんみたいなところは、仏教的な要素が入っている風な気がするんですよね。日本人はそういう人たちなんじゃないかと思うんです。震災が起こったり地震が起こったり洪水が起こったりといろんな時に、苦難を超えて進化していくっていう。
供養と加持祈祷の世界
オキタ:ちなみに観章さんは日蓮宗のお坊さんでもあられるんですけど・・・。
互井:日蓮宗のお坊さんそのものだよ(笑)
オキタ:日蓮宗のお坊さんは、木剣加持という祈祷をやるんですね、その時に麻の着物を着てご祈祷するんですけど、冷水を被ったりしながら、加持をされる時に、生と死という境が、ぐっと近づくんだと思うんですよね。
互井:あるある。
オキタ:それって供養に近いじゃないですか。我々は普段生活を営んでいる間、霊を感じるという事は無いわけですよ。だけど、お坊さんって、生と死の仲介人みたいなポジションで、死者とご先祖様の代弁をするところもあると思うんですけど、その辺ってどうなんでしょうか?
互井:まず、大前提として僕は霊能力者でもなんでもないので、死者の声が聞こえるとか姿が見えるとかオーラが見えるとか、そういうのは全くありません。
でも、例えばお寺の業務の中で、お葬式などの亡くなった人の供養のものと、オキタさんが言ってた加持祈祷の世界の2つが存在している。お葬式含めた法事等は、亡くなった人に対してコミュニケーションをとっていく儀式なんだよね。普段はシャットアウトされているんだけど、お経をあげて死者の扉を開けて、そちらにいるご先祖様にアプローチをしていってプレゼントするわけだよね。お経の功徳とかお香の香りとか、あるいはお供物とかを供養して、ご先祖様からまた何かいただくみたいなさ。物をいただくんじゃなくて、仏教の教えを実感できるみたいな感じなんだけど。
それとは別に加持祈祷の世界というのは、生きている人に行っていくわけで、その人はその人でやっぱり扉が閉じているんだよね。自分の心の扉が閉じていて、その閉じている向こう側でいろんな出来事が起きてて、それを納めてあげるのが僕たちご祈祷する側の役目なのよ。その閉じている扉を開けて、中のことを解決する。あるいは、それを取り出して、そんなことしちゃダメだよと言ってまた戻してあげるとか・・・。
オキタ:閉じているものってどういうものなんでしょう?例えば?
互井:イメージ的なもんだけど、簡単にいえば心だよね、心。
オキタ:その人が結局は巻き起こしているということなんですか?
互井:その人の心の中でね。
オキタ:心の中でね・・・。
互井:うん、そう。心が閉じているので、外からはなかなかアプローチができないわけ。しかも閉じている問題が家の問題みたいな感じなんだよね。だから家の外でワーワーやってもダメなのよ。家の扉を開けて中に入って、例えば中で夫婦喧嘩してたら、その人たちに直接やめなさいよって言ってあげないと。家の外からあの家は夫婦喧嘩してるけどやめた方がいいぞって叫んでも、中で夫婦喧嘩している人たちに聞こえないわけだよね。
カウンセリングってそういう難しさがあって、上手い人はその扉を開けて中にアプローチしていけるけど、全員が全員そういう作業が出来るっていうわけじゃないから、カウンセリング行っても全然解決しませんみたいな人たちがいて、お寺にやってくるんだよね。
オキタ:なるほど。
互井:そういう時、やっぱり僕たちは、扉を開けて解決しなきゃいけない。僕たちがいろんな扉を開けたり閉めたり、死者の世界でもあり、生きている心の世界であり、そんな、あらゆる扉を開けたり閉めたりして解決していくっていうのが僕たちの仕事なのかなと思ってる。
この記事を書いた人
DEEP Branding japan 編集長
オキタ・リュウイチ
DEEP Branding japan 編集長
オキタ・リュウイチ
早稲田大学人間科学科中退。行動経済学に類した独自の経済心理学を研究し、日本で初めてマーケティングに応用。過 去 にプロデュースしたプロ ジェクトの 数 々は、大 前 研 一氏の「ビジネスブレイクスルー」、「ワールドビジネスサテライト」はじめ、「めざまし T V」「金スマ」など、各種メディアで特集されている。主著『5 秒で語ると夢は叶う』サンマーク出版、『生きテク』PHP 研究所 など。