• 公開:2022/10/13
  • 更新:2022/11/14

きっかけは対談

 女能面を付け、笛と鼓の鳴り響く舞台に、しずしずと歩を進める。身にまとった装束は光沢のある朱色の唐織(からおり)。老松の描かれた舞台奥の板壁を背に、ゆったりと扇子を仰ぎ、舞を披露する。

 2022年9月。東京・東中野の梅若能楽学院会館能楽堂。オキタ・リュウイチは能楽の稽古に励んでいた。10月14日、同じ会場で初舞台を踏む。

 能楽への取り組みは初めてだ。今から8年前、梅若幸子氏と知り合いになったことがきっかけだった。能の上演団体の名門「梅若会」の理事で、重要無形文化財保持者(総合認定)の梅若長左衛門氏を父に持つ。ことし1月、再びご縁があり、長左衛門氏とオキタが対談することになった。オキタは日本の伝統文化を現代社会に取り入れる活動をしていて、、能の魅力を知ろうと、対談を申し入れて実現した。その場で長左衛門氏から「ちょっと装束を着けてみない?」と勧められた。袖を通したら、見事にはまり、「いっそのこと、能を舞ってみませんか?」という話になった。指導は長左衛門氏から直接受ける。「お客さんにお見せする機会のあった方が稽古にも張り合いが出るだろう」と本番のお披露目会も設定された。

半身不随をおして

 オキタは3年前、脳出血で倒れた。仕事中に意識をなくし、救急車で医療機関に運ばれた。一命は取り留めたが、言葉と体の自由を失う。自力では生活できず、2番目に重い障害等級の認定を受けた。半年間に及ぶ懸命のリハビリで言語障害を克服し、運動機能も一定程度回復させたが、なお左半身が不自由で、左腕はほとんど動かない。能の動きは習得に何年も何十年もかかると言われるほど、簡単なものではない。しかも障害の後遺症の残るオキタにとってさらに難度が上がる。能は未経験な上、体が言うことを聞かない不安はあったものの、好奇心とチャレンジ精神が勝り、未知の世界に飛び込んだ。

 稽古は週に1~2回。装束を身に着けて行う本式の回もある。着付けは梅若氏が直々に行う。腰まである長い髪のかつらをかぶり、唐織を羽織る。唐織は重厚で豪華。もえぎなどの四季の草花の模様が金糸、銀糸で織り込まれている。最後に面をつけ、本格的ないでたちに仕上がる。

演目は世阿弥の代表作

 本番の演目は「熊野(ゆや)」の一部。世阿弥の代表作だ。平家の公達(きんだち)である平宗盛の内縁の妻「熊野」は故郷の母の病状が思わしくなく、里帰りのために休暇を申し出るが、「花見の宴がある」と聞き入れてもらえず、涙ながらに酒宴で舞を踊るストーリーで、オキタは主人公の熊野を演じる。

 稽古の幕が開いた。囃子が奏でられる。オキタは装束にお面の姿で、橋渡しと呼ばれる舞台の袖から登場する。

 〽草木(そうもく)は雨露(うろ)の恩(めぐみ)。養ひ得ては花の父母たり。況(いわん)や人間に於(お)いてをや。あら御心(こころ)もとなや。何とか御入(おんい)りさうらん〽

 母の身を案じながらも駆け付けることのできない悲しさを表す歌詞を、能楽特有の節回しで歌い上げる。

 舞台の中央に足を運び、囃子に合わせて扇子を振り、舞を舞う。

動作にぎこちなさも

 足運びは後遺症の影響で時折、ぎこちなさを見せる。左手が効かず、扇子を開くのもたどたどしい。舞台の四隅にある柱との距離の詰め方も、お面で視野が狭くなるせいで、恐る恐るの感が否めない。

 「焦らず、ゆっくりと」

 そばで見守る梅若さんから言葉が掛かる。ひと通り動作を覚えた人の特徴で、次の動作に入るテンポが次第に速まる傾向があるという。「これも進歩の表れ」と、梅若さんは上達する過程の関門と捉えている。

表情に充実感

 演舞時間は20分近く。体が不自由なハンディで、動きは全体的に滑らかとは言えない。それでもオキタは、かけがえのない大切な母の元に、すぐに駆けつけられない自分の身を嘆く主人公として舞う。

 稽古が終わり、装束を脱ぐ。何重にも重ね着をするため、重く、暑い。額から汗が噴き出るその表情は、充実感に満ちていた。

 リハビリ効果も表れ、「腕が上がるようになった」(オキタ)という。お面で視野が狭まったケガの巧妙で、視力が良くなった副産物もあった。

 オキタは能を身を持って体験した。

 <さて、これを現代にどう反映させよう>

 稽古を積みながら、日本の代表的な伝統芸能の精神性を「今」に落とし込む道を模索している。