能楽師で、重要無形文化財総合指定保持者の梅若長左衛門さんと梅若紀彰さんに、能舞台をお借りして、DeepBranding編集長のオキタさんと対談して頂きました。
敷居が高くてなかなか聞けない「能の魅力と世界観」を引き出していきます。700年の歴史を持つ、能の奥深さ探っていきましょう。
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オキタ:能の舞台は西洋演劇とは全く違って謎だらけです。能にはレクイエム的な要素があります。分からないことが多いのですが、まず能はどんな世界観なんでしょうか。
紀彰:普通の演劇とは全然違います。駐日大使だったポール・クローデル氏が「劇はなにごとかの到来、能はなにものかの到来」と言いましたが、とてもよく表していると思います。お客さんの場に、なにものかが現れて、思いを語って、浄化されて帰っていくような流れの作品が多いんです。
能は演劇と違って、筋書を追って展開を楽しむのではないんですよね。能は夢の世界と似ていると思うんです。良い夢を見た後って気持ちいいじゃないですか。それと似ていて、よくわからなくても「ぞくぞくする」と感じてもらえたら、それがまさに能にハマってもらったということだと思います。ずっと見ていられると思います。
そういう感覚を持てない人も居ると思いますが、「何だか分からないけど涙がこぼれてしまう」ような、能ならではの魅力を伝えていきたいですね。演劇とは違った、世界に一つだけの、独特な物だと思います。
なかなかどこから手を付ければいいか分からずに、食わず嫌いされてしまう方もいらっしゃるので、こちらが伝えていかなければと思っています。今回は対談でそれをまさにやっていただいていて、ありがたいです。
長左衛門:元々日本の芸能は神道や仏教の要素を色濃くはらんでいます。舞台には4本の柱が立っています。「柱が見えづらいから取ってくれ」とお客さんから言われたりするんですが、4本の柱の中は神聖な場所である、という考えから来ています。
能舞台には東西南北も決まっています。お客さんがいる場所は現世で、方向が変わると世界が変わってきます。仏教の考えから、西の遠くには先祖や神が居るとされていますね。
幕の奥には「鏡の間」という演者が登場前に通る大きな鏡が置かれた場所があります。「神を降ろす」場所だから「鏡の間」と呼ばれるという説もあります。
オキタ:舞台正面に春日大社の松が描かれていますが、この絵も「鏡板」と言いますね。鏡ではないのになぜ鏡となのかというと、鏡にはお客さんが映っていて、お客さんが舞台のご神体として存在している、というような考えからきているのではないか、とも思いますね。
長左衛門:能は室町時代に生まれたのですが、そのころの文化では左右には意味合いの違いがありました。能面も実は左右が非対称なんです。面は左右で少し作りが違うことによって、面の角度によって表情が変わって見えるんです。
オキタ:ウルトラマンは能面をもとにデザインされたという話があります。能面と同じように角度によって表情が変わるんですよね。
長左衛門:微妙な違いを生み出していくという、日本の文化のひとつの特徴が表れていると思います。
オキタ:あの世である彼岸(あの世)から、此岸(現世)にやってきて、右側を見せると悲しそうな表情に、左側はホッとしたような表情に見えるような、舞台設計になっているわけですよね。面白いなと思います。
しつらえ自体が神道的だと感じます。松は神様が下りてくる場所だと言われます。
観客が神様になってしまったり、演者に神が下りてきたり、パラレルワールドな感じがします。ぞくっとするような魅力があるなと。
長左衛門:能は前半と後半に分かれていることが多いんですが、能の役者は”シテ”と”ワキ”に分かれていて、ワキは脇役ではなく同等なんです。ワキはお客さんと同じ立場にいて、ワキが見た夢を、お客さんに共有しているという流れなんです。
よく学生さんたちが見に来た時に、「夢の世界の話だから、夢うつつで見てくれていいんですよ」というんです。「でも寝言といびきだけはやめて」と言うんですが(笑)
オキタ:異世界な感じがしますよね。
鳴り物とかが入ってくると、ミュージカルなら見世物として音楽を使うわけですが、能では神事のような、祝詞を言っているような感じがするんです。これは誰に見せているのかな。もしかしたら自分の中の魂に見せているんじゃないかって。
長左衛門:翁面という面があるんですが、この面自体が、神の依り代になっているんです。普通は鏡の間で、隠れて面をつけるのですが、翁の時は舞台でつけます。そして他の面の時には、つけるときに言葉を発して位置を調整するのですが、翁のときには言葉ではなく声だけで指示して着けます。何故かというと恐らく、翁は「言葉をしゃべる」「ことほぐ(祝う)」というのが大事な仕事で、神様としてしゃべることになるので、他のことは喋ってはいけないんだと思います。能はこういう面では神事の意味合いが強いんです。
オキタ:お二人も翁面をつけることはあるんですか?
長左衛門:この前は翁面を紀彰さんと二人でつけました。十二月往来(じゅうにつきおうらい)という、2人で翁を演じる特殊な演目なんです。この舞台は昭和30数年にできましたが、十二月往来を演じたのは今回が初めてでした。
オキタ:もしかしたら、能は理解しようとすると苦しいのかもしれませんね。
神様が言おうとしていることを、頭で理解できなくても、感じようとするほうが、能には合っているのかもしれません。
長左衛門:能楽師は意地悪で、どう観られるかは考えていないんです。「どう観るかはあなたの勝手だ」と。
オキタ:面をつけているときに特別にやられていることってありますか?神様が降りてくるわけじゃないですか。
長左衛門:何も考えていないといえば考えていないような気がします。でも心のどこかで、違うものになるとか、神になるという感覚がありますね。
紀彰:翁として翁舞をするときには、儀式としてちゃんと勤め終えることが第一になります。自分の力だけではどうしようもないので、「力を貸してください」というような感覚です。
長左衛門:漠然とした感覚ですが、舞台で演じるということは、何か自分の力ではないものの力を借りるという感覚があります。
オキタ:自力でやるんじゃない、「これ上手いだろ」というような状態じゃないですよね。「やってやったぞ」みたいな。
紀彰:絶対ダメですね(笑)
長左衛門:そういう時に限って失敗しますね(笑)
紀彰:最近は難しいですけど、翁の場合は本来、7日間精進潔斎する(酒や肉食をしない制限のこと)とか、舞台の奥で出番の前に米にお塩を振って食べたりとか
オキタ:ホントに神社の宮司さんみたいですよね。儀式が。
長左衛門:今の時代でも、前の日くらいから「食べ物を他の人と同じ火で炊かず、分けて炊く」とか、火打石で身を清める「切り火」をしてから食べ物に触るとかやってます。
オキタ:お祓いですよね。
長左衛門:僕は風邪ひいちゃうんでやらないですけど、朝水を被ったりする人もいます。新しいお風呂を張って、身を清めて、ということは未だにしています。
見えないところでいろんな決まりがあったりして。守ることで何になるんだって言われると答えられないんですけど。そういうものだからと。
僕らは衣装を着るときに、必ず左足から履くんです。足袋でも袴でも同じです。舞台に上がるときも左足からなんです。
実は昔、武士の作法として、切腹をする場所に上がるときに右足から上がったんです。
その流れで、舞台という神聖な場所に右足から入るのは不吉だ、ということになり、すべて左からになったんです。普段から意識してますね。
オキタ:そういう一般の人が知らないことがたくさんあるんでしょうね。
能は完成された芸能で、始まりから終わりまで、すべて決まっていますよね。
でもだからこそ一般の人は、聞きたいことがあっても、聞いたら失礼に当たるんじゃないかと思って聞けなかったりします。
僕のような引き出す人が必要だろうなと。
長左衛門:そうですね。翁舞の場合は特に儀式的ですが、翁以外が面をつけるときには、鏡の間で一礼をしてから着けます。それは神々に向けた礼でもある。そういう流れが決まっています。そこから能が始まっています。
幕が下がった後にも、終わりじゃなくて、自分の姿を鏡に映してから面を取って装束を脱ぐんです。
みなさんが見ていないところでも、色々な決まりがあって、それがあって初めて始まるし、終わるんです。
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たくさんの決まり事があって、敷居の高さを感じてしまう能ですが、だからこそ700年の歴史と日本文化の奥深さを感じられますね。
対談は中・後編に続きます。能がいかにして生まれ、どんな進化を経て現代まで続いてきたのか。海外にどう受け入れられているのか。さらに、実は最先端と言われる理由が明らかになります。是非、続けてご覧ください。
この記事を書いた人
DEEP Branding japan 編集長
オキタ・リュウイチ
DEEP Branding japan 編集長
オキタ・リュウイチ
早稲田大学人間科学科中退。行動経済学に類した独自の経済心理学を研究し、日本で初めてマーケティングに応用。過 去 にプロデュースしたプロ ジェクトの 数 々は、大 前 研 一氏の「ビジネスブレイクスルー」、「ワールドビジネスサテライト」はじめ、「めざまし T V」「金スマ」など、各種メディアで特集されている。主著『5 秒で語ると夢は叶う』サンマーク出版、『生きテク』PHP 研究所 など。